No.59 【死人として今日を生きる】
2020.07.29
本日は7月23日の早朝。
石垣島の八重山病院で書いています。
◆死にかけました。。。
前回、
「ちょっとしたことで体調を崩し、念のため入院」と
お伝えしましたが。。。読者の皆さまを突然驚かせても
と思って軽く書きました(笑)
実は、石垣島、波照間島、小浜島の旅とそこでの思索と内省、
少しダイビングを楽しみ、
セントレアに帰る予定のその日、小浜島から帰りついた石垣島の
フェリーターミナルで、急性心筋梗塞を発症してしまいました。
「心肺停止し、かなり命が危険な状態だったこと」
「助かったとしても、脳やカラダの機能に何らかの障害が残るのが普通」
とのケースだったと主治医、友人のKさん、家族から、
意識が戻って数日後に聞き、私自身大変驚きました。
なにせ、小生は、ただ眠って(約2日間)意識が戻ったら、
「少しカラダに違和感があるけど、意識はハッキリしているし、カラダも元気そう!」
と感じただけで、
そんな大変な状況が起こり、家族はじめ親しい皆さまが「死ぬかも?」の状況の中、
大騒ぎになっていたとは、つゆ知らず。。。
主治医の先生、看護師さんはじめ、関係者の皆さまから、
「こんなに回復が早く後遺症もないなんて、あり得ない」
と伺い、ようやく事の深刻さを認識したのと同時に、
その皆さまのおかげ、そして、治療には直接関わらなくても、
私の命があらんことを祈って下さった皆さまのおかげ、と感謝に耐えない
心境になりました。
その内の一人、Aさんは、ロードバイクで小生の
岐阜羽島の自宅近くまで走り(約40km)、
自宅周辺で、小生の命の無事を祈って下さったそうです。
◆師匠の一人 徳さんから頂いたお言葉。
「生かされているということを期せずして、
頭ではなく、体感できたことによって、
新しいステージが開けました。
肩肘張らずにあるがままの人生を
謳歌されんことを祈っています。」
◆サムシング・グレート、神さま
まさに、命の不思議さ。
「自分で生きているけど、
でも、偉大な何か(サムシング・グレート、神さま)に生かされている」
を体感しました。
「死んでいたかもしれない・・・・」
病室でこの事実を反芻していて、心に浮かんだのが・・・
『葉隠』(はがくれ)。
◆『葉隠』の教え
『葉隠』は、江戸中期の鍋島藩の武士 山本常朝の教えを後輩がまとめたもの。
*『葉隠』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0
*「朝毎に懈怠なく死して置くべし」
*「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
等の文言は聞いたことがある方も多いことでしょう。
『葉隠』の教えは、
(武士たるもの)
「己の私心を離れ、公(当時で言えば、藩(お家)、武士の誇り)
のために『我、如何にあるべきか?我、今、何を為すべきか?』
の正しい決断を 常に生にとらわれず行え」
と説いている。
◆隆 慶一郎氏の小説
この『葉隠』を題材に書かれた小説に
隆 慶一郎 『死ぬことと見つけたり』(文庫本 上・下巻)
がある。
隆氏の著作が大好きで30代前半に全て読み、
(デビューが遅かったから、さほど作品は多くはない。)
それからも人生の選択で迷ったり、
仕事のことを忘れ、別の世界に没頭したい時など、
繰り返し読んだ。
隆氏の小説のテーマは、ほぼ全て同じ。
「男たるもの 如何に矜持を持って生き、如何に死ぬか?」
この『死ぬことと見つけたり』の中では、
『葉隠』の教えと実践が、日常の中でどのようであったか?
が主人公やその仲間の生き方を通じて描かれている。
鍋島藩の師弟は、物心がついた時から、
「お家のため、武士の誇りのためには、
有事の際、潔く、その瞬間に死を受け入れ、
為すべきを成せるよう常に自己鍛錬をしなければならない」
とある。
『死ぬことと見つけたり』の主人公「杢之助」を始めとする男たちは
いわば「死人(しびと)」として生きている。
「死人」=生きながらいつでも死ぬ覚悟をもっている人。
死は特別なことでなく、「死人」だから、
ひょいとその世界に入り受け入れることができる。
従って、日常の暮らし方、遊び方、仕事の仕方の振幅が大きく、
生きる密度が半端ない!
(サッカーの大迫選手の何倍以上?!(笑))
人生の振幅が非常に大きい。
その分、人生の楽しみ方(酒を酌み交わしながらの男同士の語らい、
奥さんや我が子との関わり、友との交わり等)
が半端ない。
同様に「死を覚悟しての公のための行動」の幅も、そのスピードとダイナミックさが
とんでもない。
「死人」だから、
「日々生きている今」を「半端なく充実させようとする(というより、なってしまう)」
今回の体験で、
「命はいつ終わるかわからない。。。
自分の意志とは関係なく、命の終わりは突然くることも自然。」
と感じた次第。
今までも「一日一生」とか「今、この瞬間が人生そのもの」等と
研修で幾度となく参加者にお伝えしてきた。
しかし、本当にわかったのは今回の体験をして、
というのが実感。
今までは、頭でそう考えようとし、己に言い聞かせてきた。
つまりは、そこに力みがあったと今わかる。
先の徳さんの教えの通りである
「明日生きている保証は実はどこにもない」
の体感・体得。
◆ガンジーの言葉
「明日死ぬかのように生きよ!」
「永遠に生きるかのように学べ!」
とは、「死人」の思想と近いところにあると感じる。
禅的に言えば、
*「今、ここ」が人生。
*「空前絶後」
→「前(過去)もなく、明日(未来)もない。
今この瞬間を生ききる」
今日を懸命に、楽しく生きながら、
一方で、突然の閻魔様のお迎えが来ても
それを自然に受け入れられるように。。。
「できるだけ、悔いを残さないように・・・
今を楽しみ、今日一日を生ききる。」
「死」を意識するからこそ、その瞬間が、その1時間が、今日1日が・・・
充実してくる。
今回の全く予期しなかった(実際予兆は感じなかった)出来事で
『「死人」の感覚に近づいてみる練習を日々してみよう』
と決めました。
死を意識するからこそ、
「今を生きる日々がもっと輝き、充実し、楽しくなる。」
そして、後遺症も残らず、頂いたこの先の命。
「サムシング・グレート(神さま)」が残された命を使って
何をせよとおっしゃっているのか?
まさに命を使う目的=「使命」を己に問いかけている。
後の人生、私の命をなんのため(目的)に使うのか?
孔子は、「60にして、天命を知る」
とおっしゃっているが、
そんな年代に気づかぬうちになっていたんだな~
とも、感じています。
小生に、残された人生(願わくば、あと20年ほどは・・・笑)で
「どのように命を使おうとしているか」については、
またこの徒然草でご紹介できればと思っている。
◆コロナ収束後の世界にむかって
「死人」の発想でアプローチしてみてはどうだろうか?
過去の延長・・・人は、マンネリズムに支配され、
今までの思考や行動(特に成功体験)に支配され、
「過去の延長に未来がある」との発想からなかなか抜け出せないことが多い。
コロナショックの今こそ、その発想を変えてみる。
「余命1年と宣告されたら、如何に仕事し、生活するか?」
経営者層は、
「(コロナで)一度会社が倒産したとしたら、どんな業務を、どんな立地や人材、
組織やその機能などで行うか?」
をゼロベースで考え、現実との着地点を探る。
「生あるものは必ず滅す(人も企業も)」
「死(倒産)を意識するからこそ、
今、やりたいこと(素直な欲や人生の目的)、
今、やっておくべきこと(責任や義務)」
が明確になる。
永遠に生きるなら、今を大事に生きなくてもいい。
その反面、「ダラダラ緊張感もなく、感動レベルの喜びもない日々」
になることだろう。
皆さん、一緒に「死人」として生きる練習をしませんか?
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おかげさまで、本日7月23日午前で退院。
石垣の街中で1泊後、24日には自宅に帰れることになりました。
ご心配をおかけした皆さま、申し訳ありませんでした。
そして、家族のサポートやら、その他、
見えぬところで心とご尽力を頂いた皆さま、
本当に有難うございました。
【お断り】
*先週、次回は「私の軍師 その2」と予告しましたが、
直近の体験をもとに先に今回のコラムをお送りしました。
上記については、8月分のどこかの回でお伝えします。