No.84【 禅語に学ぶ〜コロナ禍を過ごす心の対策〜その1 】
2021.03.03
◆「随所に主となれ」
この言葉を知ったのは24歳の頃、皆川さんの元で修行時代。
師匠から「早矢仕はただテストで点を取るためだけの薄っぺらの知識しかない。
わかったつもりの未熟者。本当の学問をせよ。まずは、自分の思想や哲学を持てるような本を読め。」と指導された。
当時の大学入試(共通一次テスト)で840点を取ったものの、それはテスト対策で暗記しただけのものだった。皆川さんの元に行って1ヶ月もした頃には、自分の薄っぺらさを自覚せざるをえなかった。
そこで、とにかく本を読んだ。
時間があれば、東西の思想家や仏典など宗教関係の本を乱読していた頃にこの言葉を知った。
「随所に主となれ」は、臨済宗の開祖である臨済禅師が修行者に対して諭された言葉で、「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」が原典である。
「いつどんな状況においても、主体性を忘れるな。自分の人生の主人公は自分である」との教え。
人はともすると、「うまく行かないこと」、「日々を楽しめない悩みや迷い」などを
周囲の環境や、人のせいにする。だから、その時の環境に気分を左右される。
その環境・状況を変えられなくても、その中で「自分が如何にあるか?」「何をなすべきか?」は自分の問題。
言いかえるなら、どんな環境にいようと、「どんな行動を選ぶか?どんな気分で今を過ごすか?」の選択権は常に自分にあり、その姿勢が真実を掴めることになるということ。
◆己こそ己の寄る辺(よるべ)
法句経には、「おのれこそおのれ自身の主(あるじ)である。
おのれこそ自身の拠りどころである。おのれがよく制御されたならば、人は得がたき主を得る」とある。
いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、
主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、
いかなる外部の環境に翻弄されるようなことは無い。
そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の生活・人生、自在な働きが出来るというものである。
「随所に主となれ」と同じ教えであろう。
コロナ禍の中で、「主体的に何をするか?」「どんな気分で今日を過ごすか?」
選択権はあなたにある。